躁うつ病と和解しました。

躁うつ病(双極性障害)で15年以上苦しんでましたが、和解しました。

ひとつめ、ふたつめの心療内科

初めて心療内科に行ったのは、2002年。

なんか自立支援の診断書にそう書いてあったんで、そうなんだと思う。

 

その頃前後数年間の私は、結婚してすぐ子どもを授かって、はじめての育児に必死。

同時期に、やると言ったら聞かない元旦那が突然起業したりして、いっぱいいっぱいだった。

 

ある日突然心臓がバクバク、どうしようもない『死んでしまうかも』という不安感、息ができないという症状が・・・

それ以後繰り返しそんな発作が起こるようになり、何度か病院に駆け込むも心電図などに異常なし。

その後もその症状に襲われ、わらにもすがる思いで心療内科を受診。

で、「パニック障害うつ病」との診断。

 

躁うつ病の多くの人が初めに下される、「うつ病」の診断。

でもこれは致し方ないことかと。

明らかに調子が悪い、不安感が強くて病院行くわけで、

調子が悪くても気持ちが大丈夫であれば、まず病院なんて行かないもの。

 

初めて訪れた心療内科の先生とは、いま考えても相性が良かった。

敬虔なクリスチャンで穏やか、東洋医学の漢方も取り入れた先生で、

抗不安薬抗うつ薬を出されてはいたけど、すごく薬の量も少なかった。

途中で漢方薬も取り入れて、調子は良くなっていった。

パニック発作も出なくなって自信もついてきて、

「薬を減らしていきましょう」という段階まできていた。

 

ところがある診察日、病院に行ったら様子がおかしい。

で、受付の人に告げられた一言。

「院長が、亡くなりました。」

 

頭の中が真っ白になった。

 

後からわかったことだけど、院長は末期の癌だった。

大きな大学病院を退職し開業医になり、軌道に乗った時点で見つかった末期癌。

奥様にもそのことを言えず、医師仲間にだけ打ち明けて手術を受けるも快方へ向かわず、亡くなったとのこと。

腰が痛い、ヘルニアの手術受けたんだよとつらそうに冷や汗かいていたけれど、

あれは癌の痛みだったんだなあ。

 

厳しい言い方をすれば、結果医師として責任感なさすぎなんだけど、

恨むような気持ちには全くなれなかった。

 

2週間分の薬を処方され、「次の病院は自分で探してください」と放り出されてしまった状態だった。

慌てて次の心療内科を探した。

次は、年配のベテラン精神科医

初診のときに「あなたは単純なうつ病じゃなくて、躁うつ病ですよ」と言われた。

すごく戸惑ったけれど、医師の説明には納得した。

言われてみれば、HighとLowの状態が極端だった。

 

なんで何でもできるような気がしてすべてがきらきら輝いて見える時期と、

鉛のように体が重く、自分だけが灰色のスローモーションみたいな時期があるんだろうと、悩んでもいた。

その日から薬の内容も変わっていった。

私はズボラでめんどくさがりのため、残念ながらどの時期に何の薬を飲んでいたかなど全く記録していない。

けれど、その医師は私が「あまり効いている感じはしない」と言うと、

薬の量を増量し、また次の新しい薬を試してみるというやり方だったので、最終的にかなりの量・種類の薬を飲んでいた。

たぶん、躁うつ病または、不眠症に関する薬の有名どころはすべて飲んでいると思う。

その後、何度も希死念慮に襲われ、どんどんふさぎ込んでいき、

そんな私を見て医師は、「あなたは軽いうつぐらいの方がちょうどいいんだよ」と言った。

とても悲しくてつらかった。

軽いうつぐらいがちょうどいいってなんだ?

希死念慮が起こるのも仕方ないから、我慢しなさいってこと?

 

躁状態のときに診察日で通院すると、「大物が来た」と言われてた笑

たぶんうつの時と軽躁の時の印象が、それほど違ったんでしょうね。

いま考えても『大物』とかヒドい笑

 

ふたつめの心療内科に通う12年間、

失声症やら栄養失調やら突発性難聴になり、離婚をし、自殺未遂をし、たくさんの躁転をし、

いろいろやらかしている笑

激動の20代後半~30代のため、実はあまり記憶がない。

 

そうやって軽いうつが平常、たまにドうつで動けなくなり、また軽いうつまで戻り、

躁状態で超絶ハッピー!からのドうつ状態

近年はラピッドサイクラーになっていた。

だいたい毎年、3月にドドドうつになる。

気がふれていて気づいたら死の一歩手前、こわくなってそのまま病院に駆け込むなんてこともあった。

 

2014年の3月、どうしようもない希死念慮が毎日毎日襲ってきて、

もう限界だと思った。

運よく自殺行為が成功しないだけで、こりゃ近日中に死んでしまうに違いないとおもったため、

最後の切り札を使う決心をした。

最後の切り札、最後の砦。

あの人に会って、それで良くならなければもうどうしようもない。

そのときは、死ねばいいじゃないか。

会うまでは絶対に死ねないと、希死念慮に耐えた。

それまでの仕事もやめて、単発の日雇いの仕事を始めた。

私が働かないと収入はない。

日雇いの仕事なんかじゃとても食べていけないけれど、

そうまでしても、どうしてもなんとかしたかった。

 

きっと、すごく生きたかったんだな。

いまこれを書いてておもった。

だって地獄のような苦しみだったから、選択しちゃえば楽なんだよほんとに。

でも生きられる術はないのかって試行錯誤して、執着してた。

 

いま、心の奥深くから思うこと。

自殺が成功しなくて、本当によかった。

なんというか、昔からこういう運に強い。

ミリ単位の危うさ。

生きてて、よかった。本当です。

現在の私

名前は、杏子です。

本名ではないけれど、母が私につけたかった名前。

戸籍にも載っていたけど、残念ながら大きく✖がつけられている。

そのことが、それを知った子どものころからずっとずっと悲しくて、

こういう機会にと杏子という名前を引っ張り出してる。

 

私は、シングル母として長くなんとかやってきた。

離婚の原因は、やはりこの躁うつ病がひどくなった時。

元旦那は日々状態を悪くしていくわたしを見て、

「俺のせいでこうなったと思うと、耐えられない」と離婚を切り出してきた。

正直しばらくの間、彼はわたしと子どもを捨てたんだと思ってた。

そう思わないと、躁うつ病を抱えながら気持ちを奮い立たせて働き続けることができ

なかったし、離婚して数年間は本当に嫌いだった。

『怒り』だけが原動力の時代だったなあ。

時が経ち怒りもなくなり、断薬もして躁うつ病とうまく付き合えるようになったいま、

彼が切り出した離婚という選択は正しかったと思ってる。

結婚生活を無理に続けていたら、間違いなく共倒れしてただろう。

いまは元夫婦という枠を越えて、娘の共通の親であり、

わたしの心の支えでもある。

わたしは離婚後、一度も直接会っていないけど。

 

一人娘は早くから社会人として働いており、

いつになっても心配は尽きないけど、子育てはいちおう終了。

 

私自身は躁うつがひどい時も、割とずーっとパートで働いてた。

そうしないと生活できなかったからなんだけど、

今にして思えばそれがよかったというか。

仕事をしてると基本的に一生懸命やりたいのでそっちに集中できる分、

病気のことを考えないで済んだ。

仕事は最高に気がまぎれるし、何よりお金が入る。

調子が悪くて動けなくて鬱々と病気のことを考えて休んでいるときは、

本当にいつも死にたいに追いかけられていた。

自殺行動を起こしてしまいそうな自分が怖くて、

自分で自分の体を縛ってたりした、異常な日々。

自殺未遂をして病院に駆け込んだ数日後に、

荒療治とわかっていながら普通に仕事に行ったりした。

崖っぷちだったとはいえ、よくやったなあと思うし頭おかしかったなとも思う笑

 

でも稼げるときに稼いでおいたおかげで、どう考えたって休職しなくてはというときに

休むことができた。

ずーっと働いてきて、断薬に取り組む約1年半は無職だったかな。

離婚してからはずーっとお金なくて、いまでもお金ないんですけど笑

なんか生きられるもんですね。

 

いくつかの転職を経て、現在も非正規だけど正社員なみに働いている。

『働き方、働く場所、環境』というのも、躁うつ病と和解するためにはとても重要。

たくさんの失敗を重ね、やっと自分に合ったいい答えが見つかりつつある。

 

ちなみに職場にはいわゆる『クローズド』で働いている。

障害者枠とかではなく普通に働いている。

そういうキャラじゃない立ち位置にいるため、今更言えなくなってしまった。

 

それと私自身どこか冷めてる部分があるというか、

闇雲に誰にでも病気のことを明かすべきじゃないと思ってたりする。

やっぱり人間は「得体の知れないもの、よくわからないものは怖い」というのがあると

思う。

そして悲しいかな、どうしても差別ってあると思うから。

だからこそ躁うつ病みたいなちょっと微妙な病気のことをオープンにする相手は、

こちらが選択しなければいけないと思ってる。

自分の身を守る術。

 

躁うつ病と共に歩き始めてから長い長い道のりだったな。

これからもたぶん試行錯誤、たまにどきっとして、たまに忘れちゃうぐらいがいいな。

いやでも、うまく付き合えるようになれば人間なんて勝手なもので、

あんなに振り回されたのに、忘れちゃう。

わたしもずっと忘れてたもん。

 

最近数年ぶりに調子が優れなかったので、

ちゃんと思い出して、何がよくなかったのか、これかなと思う原因を次々と見つけた。

数年ぶりにパニック発作まで出て、また逆戻りかもと泣きながら落ち込んだ。

と思いきや、2日で立て直すことができた笑

だいじょうぶ。

躁うつが悪かったわけではなく、わたしの行いが良くないだけだった。

今回再発かと思うほど悪化したおかげで、

躁うつのコントロール能力がまた上がった。

 

そんな発見も書いていこう。

春は鬼門

春はこわい。

躁うつ病と共に生きてきた中で、

毎年3月末に大躁転からどん底のうつに転げ落ちる経験を繰り返し、

すっかり春がこわくなってしまった。

 

でも、その「大躁転からの大うつ転落」が起こらなくなって

今回3回目の春を迎えることができた。

精神科系の薬を一切飲まなくなってからも、3年以上経つ。

 

それでもまだ、5月のこの時期はこわいと感じる。

躁うつの状態が悪くなることは、それほどの恐怖だったから。

3月の終わりから4月は大好きな桜の季節。

夢みたいに美しい桜色が嬉しくなって見に行くんだけど、

はらりはらりと桜が散るのを見ると、

「ああもう桜は散ってしまうし、いますぐ消えたい」

と本気で思っていた。

情緒不安定にもほどがあるけれど、躁うつのひどい時って本当にこうだから困る。

 

毎朝目覚めた時には、「また朝を迎えてしまった…」と絶望する毎日。

そこに愛する人がいる事実とかは関係なく、そういう感情が湧き上がる。

 

思い出すとつらいです。

で、なんで思い出すとつらいのにブログを始めてみようかと思ったかというと、

この鬼門の春のタイミングで不安要素がいくつか重なり、

ちょっと不安になったから。

気持ちがいそがしくて、かなり情緒が不安定。

こうして人は5月病と言われる状態になるんだな、わかってるわかってる。

 

いい歳なので、周りの人の話を聞いて励ましたり慰めたりしてるけど、

本当は自分自身がなんか不安で、落ちつかないんだからどうしようもない。

正直、躁うつ病であることや壮絶な闘病生活を経ての今があることも隠しているのが、

しんどくなってきちゃった。

 

いまのわたしは、躁うつ病を『悪い奴』だなんて思ってない。

躁うつの状態が悪くならなくなってすこし時間が経って、

自分が躁うつ病でずっと死にたい願望につきまとわれてたことも忘れて、

自分が躁うつ病だということすらほぼ忘れかけていたけれど。

なんだかこのまま無き者のようにするのは悲しくなってきた。

 

15年以上試行錯誤しながら、やっと手に入れることができた躁うつ病との和解。

いろんな人に迷惑かけちゃった、ごめんなさい。

いろんな人に助けてもらいました、ありがとう。

そういういろんな積み重ねがあっての和解なので、

躁うつ病はやっぱりわたしにとって大きい存在。

 

外では言えないことを、ここに書けたらいいな。

わたしには、なれない

『人は皆動物だから、生まれつきの資質を生かす生活をすれば健康でいられる。

人の社会はなかなかそれを許さず、歪めて病気にしてしまうね。』

神田橋條治先生に言われたこと。

 

躁うつの波をうまく乗りこなせるようになってから気づいたけど、

自分が、わたしはこういう人間だと思い信じ続けてきた形は、

実は育てられた環境で、悪く言えば無理に矯正肉付けされたもの。

本来のわたしが持って生まれた資質、DNAに刻み込まれたものは全く正反対だった。

躁うつで苦しんでた時は、若干それに気づいてはいたけど認めるのがこわかった。

いまは完全にそれを認めることができるようになって、心を許した人にはそれを暴露できるようになってすごく楽。

 

わたしは、ものすごく面倒くさがりでどうでもいいことは適当だし、

綺麗好きでもない。

お風呂とか完全に面倒くさい。

お風呂から出たあとは気持ちよくて後悔したことなんて一度もないけど、

入るまでが異常に面倒くさい。

度を超えた出不精なのも、「人混みが嫌い」「行列に並ぶことの意味がわからない」「家でひとりでやりたいことが結構ある」とか言ってるけど、まあそれも全部正しいんだけど、

結局根本にあるのはすべて『面倒くさい』なんだ笑

 

あと、物事に極端に熱しやすくて冷めやすい、異常に熱中したかと思えばすぐ飽きる。

これがわたしの趣味です!と胸を張って言えるものが、特にない。

ただ、やった経験のあるものはすごく多い。

たとえば何かモノを作る的なことはひととおりやってきていて、

家具とか自分で作ったり、庭掘り返してレンガ敷いたり夢の中のように花を育ててた時もあるので、何でもできて器用な人と勘違いされるんだけど、決してそうではなくて、やれば誰でもできるレベル。

「やってみたいなーでも今は忙しいし給料は入ってからじゃないと準備できないし」で足踏みするのが多くのまともな人で、「やってみ・・・」くらいで既に動いちゃってるのがわたし。

 

極めるところまでは気持ちが持続しないから、何事も中途半端で終わる。

まあそれでも数年周期で「あの情熱ふたたび・・・!」みたいな感じで興味が戻ってくるので、もうこれはこれでいいや。

 

祖先を辿ると、農耕民族ではなく狩猟民族だっただろうなと思う。

常に何か目標や追いかける存在、探求したいことがないと、

退屈してダメになるタイプだ。

手に入れた途端とかトップ近くまでいった途端、どうでもよくなることが多い。

難しいことでも、攻略できたあとに急にくる『飽きちゃった』感は尋常じゃない。

どーんとグラフの頂点にくる好奇心と集中力がすごすぎて、そのままだと危険なほど熱くなりすぎたりフリーズするから、防衛本能でしゅんと冷めるのかな。

こういう元々の脳の動きとか信号の出方こそが、躁うつなのかなと思ったり。

 

若い頃は、

上の言うことを聞いて、嫌でもハイと言って、頭を下げ続けて、満員電車と格闘しながら、

くたびれて飲んでは愚痴ばかり言って、

定年まで働き続ける日本のサラリーマンを格好悪いと思っていた。

わたしの父親もそうだった。

 

歳をとったいま、というか数年前にハッと気づいた。

あのくたびれたサラリーマン達が、日本を作ってきたんだ。

結局は家庭を家族を守る!という目的のために、嫌でも納得いかなくても頭を下げて、

同じ場所で働き続ける人がいてくれたから、世の中が回ってる。

あの人たちすごいな、わたしにはなれないできないと、結構愕然とした。

 

みんながみんなわたしのように、

どうしても納得いかないとか飽きたとか別の世界も見てみたいとか、

そんなことばっかり言って本当に行動起こしてたら、

今の日本の姿はなかっただろうなと思う。

 

矛盾してるんだけど、

日本のサラリーマンを格好悪いと思いつつも、わたしもそういう家庭で育ってきたから、

自分もそういうタイプの人間だと思っていた。

思っていたし、そうでありたかったというのが本音かもしれない。

 

でも薬が抜けたとき、しっかり気づいてしまった。

わたしはそっち側の、ちゃんとした方じゃないなと笑

こっち側の、いい加減な方の人間だなと気づいてしまったの。

生まれもってはいい加減なのに、

明治生まれの厳格な祖母がいる環境の中、すごくちゃんとちゃんと育てられて、

『継続だけが力、我慢は美徳』と信じてきた。

そりゃあ躁うつも悪くなるわ。

「なんでも一人でできるね、きちんとやり遂げるね、優等生、几帳面」ずっとそう言われて、たぶんそうじゃなくちゃいけないんだとか無意識に信じてたんだろうな。

その延長線上には、『そういう風にしていれば、わたしを見てもらえる』、

その先の勝手な自動変換には『そうしていないと、わたしを見てもらえない』。

子どもは純粋バカだから、決してそんなんじゃないのにそう信じ切ってる。

その無意識の呪縛のまま、おっきくなっちゃった笑

それが未だ続く、極端に自信が持てないとか自己肯定感が低い部分と、仕事なんかで必要以上に頑張りすぎてしまう癖につながってるかも。

そう考えると『ひたすら褒めて期待してるよと伸ばす』みたいな教育法もどうなのかなー、

人によってはいいのかもしれないけど。

 

この間ふと、仕事に行くのが嫌で嫌で

あー男に生まれてヒモになりたかったなと本気で思った。

よかった、わたし男に生まれてたらきっとクズ中のクズだった。

お母さん、女に産んでくれてありがとう。

 

あと数日前の深夜番組で、

『フィリピン人は給料日に全額近くお金をおろして家族で豪遊しちゃう。残りの日々は質素に暮らす。その豪遊日のために働いてるし生きている、明日死ぬかもしれないし、という国民性。』ていうのやってて、すごく共感できちゃったし理解できちゃったし納得した。

神田橋先生がフィリピンには躁うつ気質がうじゃうじゃって言ってたもん。

脳みその考え方が刹那的なんだろうな笑

刹那的と言えば聞こえはいいけど、やっぱりクズ側なんだよねえ・・・

 

ま、わたしはしっかりクズ側を自覚したので、今後は上手に、

いままでよりずっと楽に生きていけると信じてる。信じたい笑